今まで使ってきた医薬品や健康食品で満足できなくなってきた・・・
もっと良いのがあるのでは?
医薬品や健康食品を継続している方の場合、一年も経過するとどうしても突き当たる壁、「効いていないのではないか・・・?」。
(良い健康食品などを継続していると仮定して)
振り返って2年前の状況を仔細に思い浮かべてみると、確かにそこには一定の成果というかそれなりの変化はあるのだけれど、何故かそのように感じてしまうのは脳の仕組みとしては仕方の無いこと。
2年前のある日から、突然今日の状況を迎え入れたとしたら、それは喜ばしく理想の状態であったとしても、そのように感じないもの。
なぜなら、今の状況を分析するにあたり、比較対照はせいぜい「一週間前〜一ヶ月前程度の自分」という短いスパン。例えば健康食品を始めた時に感じた大きな変化、喜びの状況はもうそこには無いのです。
逆に考えれば、私事ですが、今ある体調になんら不満があるわけでもないにしろ、事細かに十代の頃の自分と比較してしまうと、あまりの非力さ、瞬発力の減退、思考力は緻密でなくなり、悩みと同時に希望も少なくなり、頭髪も寂しいものがあることに「老化」というものを感じさせられます。走るということができるかどうかも良く分からない、単に「走れるハズだ!」と信じている運動不足。
そんな今現在の自分を、十五歳の時の私がある日突然に受け入れなければならなくなったとしたら、おそらくショックで立ち直ることができないであろうと思います。
「今までいったい何をやっていたんだ!アンチエイジングできてないぞ!」と、(今の)自分を責めるのではないだろうか。涙も出るような気がします。
今、自分で自分を受け入れられない悲しい状況を思い浮かべてしまいましたが、現実的にはそれほど悲観しているわけではなく、今の自分を受け入れていますし、まぁ普通のことではないでしょうか。
それは、例えば腕立て伏せが若い頃より全然できなくなっていたり、物忘れが多くなったりと多くの現実を見せられても変わる事はありません。
私は今の自分を見る時、少し前の自分と比較しているのです。
「私はそれほど変化していない!」 ・・・と。
もちろん、「おっさん」であるという自覚をある程度持っていないことには、無茶をして怪我をしてしまうなどの危険性がありますので、自分を知ることは大切です。
ともかく、過去から現在へと自分を取り巻く時間の流れの中で、自分を客観的に見るための比較対照となるのは近い過去、最近のことなのです。
今現在自分の置かれた状況を明確にしたい時、それは感覚だけではなく、厳密に過去を振り返らなければ、今ある状態を見誤る可能性があるかもしれません。
医薬品、健康食品に対しても、「効果が感じられなくなってきた」という感想はまず第一に「有り得る」ことだと考えて、もう一つ深く考えてみると、その有効性(無効性も含めて)が見えてくるのではないでしょうか。
●痛み●
痛みとは、痛みの発生箇所から一旦脳なり延髄(中枢)に情報が送られ、それを受けた中枢はそれに応じた痛みを感じつつ、それに対処するように様々な命令を送り返します。
それは、もうこれ以上痛くならないように(物理的に損傷を与えないように)と備え付けられたリミッターのようなものであり、痛みを感じるシステムは、進化の過程で作り上げられたとはとても思えないほどに良くできていると思います。
痛みとは、中枢が感じているものであるため絶対的なものではなく、例えば腕にAの力を加えたからといって必ずしもBの痛覚を覚えるというわけではありません。
神経の通っていない部位では同じ損傷を与えても痛みは感じないものですが、そういう問題ではなくて、同じ神経に同じ圧力をかけたとしてもです。
特に痛みは、優先順位があるようで、いくつかの痛む場所がある場合、脳は特に痛みを感じるべき状態に対して反応するようです。右膝にサポーターを付けたとたんに左膝が痛くなってきたといった具合で、大きな痛みの中に小さな痛みは隠れ、処置するべき優先順位が付けられているかのようです。
痛い = 最優先事項なのかどうか?
痛みが痛みを連れてきたり、原因箇所とは違う部位で痛みを感じたりすることからも、「痛み」が万能であるとは言いがたいですが、状況が良くないのに痛みが無いよりはマシです。なんらかのサインにはなり得ます。
痛みの度合いは?感知している痛みは正当な痛みか?となると難しいですが、自らが炎症を起こし、その症状を取り除こうとしている反応が同時に起こっているとして捉えると、痛みは自己治癒能力下における最高の判断基準として見ることができるかもしれません。
カユミも痛みと同じ状態で、それが不快であるということ。
蚊に刺された跡に爪で×印を付けるのは痛みを痛みで消すということで、×印の痛みがカユミより強烈だということ。
以前、腰の手術をした時のこと ⇒詳細(別窓)
最終的には治りましたが、その過程では痛みが途切れることの無い、永遠のもののように感じました。
検査で使われた注射で、「相当痛い(ハズの)造影剤」であっても、何も感じることの無い「腰」への一極集中型の激痛、この痛みが取れるなら、他は何だって耐えることができると確信した遥か昔。
しかし今となっては、蚊に刺されれば痒く、スネをぶつければ当然に痛みを感じて顔をしかめる。
「あの時の痛みに比べれば・・・」
なんて強気な発言は一切出てこない軟弱さ。
もうあの時の痛みのレベルを思い出すこともできない平和な日常にいて、私の脳は「激しい痛み」を忘れてしまったのかもしれません。
実際、痛かったことは覚えているけれど、どれくらい?となると相当曖昧で、「十日ほど眠れなかった」とかいうような状況的なものしか出てきません。
今ある痛みとは、絶対的な量として計測できるかもしれませんが、それぞれが近い過去や今現在の痛みとの比較により作り出されたシグナルの大きさなのであって、機械のセンサーのようでありながら少し違うものだと思います。
●気持ち●
人は気持ちで動くもの。
晴れた日には東尋坊での自〇者が多いというのは、「多くの人が晴れ晴れとした状況にある中で、自分だけなんでまた・・・ コンチクショ(涙」 といった具合に、悲観してのことだと、そのようなことを数年前より自〇防止のためのパトロールをしている元警察官の方がTVに出て言っていました。
理由は経済的なことの他にもいろいろあるでしょうが、詳しくは知りません。
何故、他人と自分を比較してしまったのか?
これは珍しいことではなく、誰もが考えるところ。
「自分の居場所」を確認したり、「下には下が居る」ということを確認したりと、自分というものを確認するためには、他人様との比較は手っ取り早い。
上のように、自らを貶める悲観的な場合には早急に思考をストップした方が身のためですが。
Aさんはどうだ、Bさんはこうだ、と聞かされると、第三者からすると「どうでもよい話」に聞こえがちですが、本人にとってはその時の最重要課題、他を置いてでも考えなければならないことです。自分のことと同じなのですから。
「気持ち」は一人ぼっちは嫌い。主人公であろうが脇役であろうが、集団の中で生きたがる。そのうえで、できれば主人公になりたい・・・ のかな?
人は他人から認められたく、しかし頑張ったから認められるのかというとそうでもなく、性格によっても変わってくる複雑な問題です。
勝手に自分の素晴らしさを認めれば良いだけではないか?と思うけれど、自画自賛はそれほど意味がないようで、人様から等身大か、もしくはそれ以上の過大な評価をしてもらわなければ収束しないようです。
「みんな素晴らしいですよ!」 と、本当にそう思うけれど、素晴らしくもなんとも無いおっさんが言っても説得力がありませんね(汗
個人的には、私が人様にどのように評価されているか? ということについては、殆ど関心が無いといってもよいくらいに考えていません。何故か気にならないといった感じです。
今回、東尋坊の話をキッカケに人の気持ちを考えてみると、世の中は繋がっていて、それぞれは一人のつもりであっても一人でないような、そんな関係にあるのだろうと感じました。
言葉の有無や意識の有無に関係なく、個々の存在が特定の人や集団に影響を与える可能性があるのであれば、その作用を考慮した行動なりをしていかないといけないのかもしれませんね。
キリスト教徒でもなんでもありませんが
凄くいい言葉だと、最近改めて思いました
↓
「人類皆きょうだい」
子供の頃、この張り紙を見て「何いってんだ」と思ったものでしたが・・・
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