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2009/5/28
今、政治の世界で「友愛」なる言葉が使われています。
本気なのか、それともポーズなのか・・・
私は国会という場で、相手の弱いところや不祥事を突くようなことは、国民生活や日本の未来とは全く関係のないような気がして全然興味が沸かないのですが、今回の党首討論では少し日本の将来像が示されたような気がして期待感が持てます。実現可能かどうかは別として、イノベーションの入り口となる可能性があるのではないでしょうか。まぁ、討論といった感じではありませんでしたが。
鳩山氏は「友愛社会」というものを目指し、それは
「すべての人が互いに人の役に立ち、必要とされることで、社会につながっているきずな。居場所を見つけられる世の中」
と言っています。
一言でいえば、人の幸せを自分の幸せと思えるような、そんな世の中だと。
総理もこの件に関しては全く異論が無いようです。
ただ、もっと優先するべき事柄があるとのこと。
興味が無いように映りましたがどうなんでしょう?
「人の幸せを〜」は、多くの方は子供の頃に親から教えてもらったのではないでしょうか。
今回、理想で終わらせないという意思表示だと捉えていいのでしょうか?単なるポーズなのかもしれませんが、そこは分かりません。
洗心にも通じるところがあり、友愛の実現は興味深いですが、一からの建て直しが必要とされるなら、反発する方も多いのではないかと予想できます。
公務員であるならば、国民全体の奉仕者と位置づけられているので、個人としては友愛の精神を持ちやすいのかもしれません。もちろん、奉仕といってもそれはある纏まった機関や組織としてでなければ機能しないので、幹部クラスにおける話になるかもしれませんが。
今までの世界と違った新しい世界を構築するような「友愛」。
とりあえず、最終的な目標ともいえる「平和」というものの実現には憲法前文において、
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」
とあり、英文訳では、
「我ら、日本国民は、永遠に平和を欲し、かつ人類が相互に尊重しあう関係を持つべきとする高い理想の真髄が根付いている。我らは我らの安全と生存を維持できるのは、平和を愛する世界の国民の正義と誠実が有って初めて実現できると信ずる。」
となるようです。
高い理想が根付いているとのこと。遠い昔の話でしょうか・・・
憲法前文は以下のとおり
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
高い理想が元々あるのであれば結構ですが、現実的に見るとこんな感じです。
「自分だけ得したい!」
民法第一条第二項においては、
権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
とされ、基本的には契約当事者間での法的な拘束ではありますが、私法全般にまで幅広く適用される重要な項目。信義誠実の原則(信義則)と呼ばれます。
信義とは、「信」が言行一致をいい、「義」が自分の分をわきまえることであるとすると、別の言い方ではどのように表現して良いのか、もやもやした感じですが、相手を裏切らないなどの道徳的な観念。
利害関係がある場合には、ここまで書かないと適正化されない難題なのかもしれません。
信義は、小さな信義から大きな信義まであり、1対1、1対多などありますが、小さな信義のために大きな信義に反することは結局信義に反したことになります。
道徳教育が重要であることは間違いないでしょうが、同様に、又はそれ以上に、法令というものは私たちの生活の方向を決定付けるだけではなく、文化や思考の方向にも大きな影響を与えることができると私は思っています。
また、誤った方向へ向かわせない指針ともなります。
なにより、個人だけでは難しい急激な方向転換を行うにしても、段階的に施行することが可能なため現実的だと思います。
「友愛」とは、単に法律を一つ二つ追加したところで実現できるかどうかは疑問で、全面的な改変が行われないといけないかもしれません。
総理は政治的な「友愛」の欠如についての回答をはぐらかしたような感じで「抽象論」として片付けてしまい、今大事なのは経済対策としましたが、今の経済状況(家計)と友愛といったことは全く無関係ではないように思います。おそらく、鳩山氏も「友愛社会」の実現が世界経済の建て直しにも繋がると考えていることでしょう。
もちろん、「平和、幸せ」イコール「金銭的裕福」とは言い切れないので、どのような世界になるかは分かりませんが、幸せであるなら良いのではないかと思うところもあります。
どのようにすれば政治的に「友愛社会」ができるのか、それは私には分かりません。しかし、重要であることは分かります。
総理は具体論に従って政策を実現してゆくような解決法を示しましたが、法令作成時に「友愛」という抽象的なことを念頭に置かなければ、やはり問題のある法令ができあがるのではないでしょうか。
「美しい国、日本」は良く分からないうちに消えてゆきましたが、「友愛」は世界的にも良いのではないかと思います。
※個人的に贔屓にしている政党はありません。
珍しく政治について書いたので、ついでに
(税)
税金がとんでもなく高いが幸せな国、ノルウェー。
福祉政策の重厚さは日本とはまるで違う。
個人の税引き後収入や、そこから更にかかる重い消費税などにより、所得は低く共働きが普通。
もし日本が突然マネをしたらとんでもないことになるのは必至。
収入の多い人は国外へ行ってしまうのではないかという不安はあるだろうし、そもそも、国民がそのようなことを了解していない。
殆どの家庭では共働きだというのに貯蓄するだけの余裕がないとのこと。しかし貧富の差はあれど、極貧層はいない。
日本では老後の生活費、医療費などのために貯蓄を必要とするが、ノルウェーではさほどかからないというから、貯蓄がないことに対する不安はないという。
日本でも消費税を上げる上げないで話題になっていますが、そもそも、今ある借金(国債)は償還できるのだろうか。平成に入ってから発行され続けている国債は、歴史は短いくせに、額は膨大である。
積極財政が必要だとはいえ、その成果は一切把握されておらず、カンフル剤的な効果があるのかどうかさえ今後も分からないことだろうと思います。
今、自民党が民主党に「財源の裏づけ」を問う場面が見られますが、人気取り(偏見)のために無い袖を振り続けてきた自民党がもし借金をしてこなければ、財源などはいくらでもできたはずです。
政権と一緒にこの借金まで引き受けようとする民主党はよほどの覚悟をしているのか、しかし借金で借金を返さなければならない状態はすぐに改善するものでもないでしょう。
一体いつから税は上がるのか?単に借金が増えたから税金を上げるというのではノルウェーのように幸せな国にはなり得ないので、もっと未来像が見える政治をして欲しいと願うばかりです。
政治って、身体のようなものかもしれません。
身体にとって、細胞、組織、器官、どれも重要であり、時にDNAレベルまで細分化して観察することも必要となりますが、それぞれは単独では機能できず、身体という集合体(全体)の存在が不可欠であります。
個別の組織は全体が無ければ機能せず、また全体は個別の組織がなければ機能しません。
全体へ適用される法が憲法や民法だとすると、細分された各種法律は臓器など各器官や組織へ割り当てられているようなもの。
身体においては、その働き全てが必要である(と思われる)にも関わらず、細分化して見れば見るほど、不要であるように見えたり、悪い働きをしているようにも見える。大概はどのように作用しているのかも不可解な存在。
対象組織の上のレベル、果ては全体を見ないことには、それが必要なのか、それとも不要なのかは判断することができません。
逆に、全体だけしか見ない場合も弊害があります。
応急処置だけでは予後が心配な場合もあるからです。
例えば、血圧が上がるのは上げる必要がある箇所が存在しているからですが、一般的対処として降圧剤で血圧を下げると、突然タヒの恐怖からは逃れることができます。しかし原因に対しては手付かずですから、この先どうなるのか、良くないことが分かります。
政治においては、身体ほど複雑ではないかもしれませんが、単純に判断できない問題も多く存在するだろうと思います。
一見不要と思われる案件であっても、全体のために必要であれば措置する必要があったり、改善しなければなりません。
収益の上がらない分野では行政機関が対応することになると思われますが、理解されがたいうえに経費がかかるとなると世間の風当たりも強くなるので、なんとか結果を出したいところ(だとおもふ)。だが、計測しにくい面もあり成否の判断は難しい。
全体に出ている症状を見て原因を割り出し、手当ては細部から全体まで全般において行い、最終判断は全体を見る。一部分が健康になった(活性化した)からといって、全体も健康になるとは限りません。
教育をはじめ多くの政策は100年、200年先を見据える必要があるでしょうから、結果を見ることなく方向転換する可能性もありますが、法律や政策作成当初より、理想の未来を思い描き、そこにその法律などは全体として調和しているのかどうかなど慎重に吟味する必要があるように思います。もちろん、理想の未来を描くための力量も必要とされるでしょう。
また、それに伴い必要な痛みを感じなければならないならば、治癒反応として受け入れる必要がありますが、手術の先に明るい未来を展望できる説明がなければ、わざわざ痛い思いをしたくないと思うのは道理であろうと思います。
今や問題は他国間の関係だけに留まらず、自然との調和、地球の存続についてまで考えなければならない時代になってきています。
個の利益にとらわれるのではなく、全体としての利益を考える必要があり、これまでの地域だけ、わが国だけといった発想では病巣を拡げるようなものです。
このページの冒頭付近、憲法前文を見てみると、私たち日本人はとうの昔に崇高な理想と目的を達成することを誓っています。
現在ではその対象は人類のみならず、自然を含めた全てと拡大解釈しても良いと思います。
小泉政権時に言われていた「小さな政府の実現」
まだ有効期限内ですよね?
郵政民営化は小さな政府の準備段階であり公的な関与が外れた時に実現し、一方、地方分権の促進はこれに当たらない。
郵政以外に、他に何か対象はあるのだろうか?
「小さな政府」とは中学校社会で習っただろうか、アダム・スミスが唱えた物。小泉さんの言う小さな政府とは少し意味合いが違います。
必要最低限なこと(警察、消防など)以外は全て市場に任せるということを指しています。
ノルウェーや日本、その他大国はどこも「大きな政府」なのが実情。(一応市場は自由とされているので混合経済とも言われます)
アダムスミスが述べた小さな政府(夜警国家)は今や現実的ではないように見えますが、財政(国の行う経済活動)を見るとき、世界的に大きなバックボーンの一つであり続けています。
小さな政府→政府や自治体などの介入を最小限→自由?
これは古典派などと呼ばれ、「見えざる手」がなんとかしてくれるというもの。
一方で、緊急時には財政の介入が必要とするのがケインズさんの唱えた「ケインズ理論」や「マクロ経済学」と呼ばれるもの。
他にもいろいろな「経済学」は存在しますが、書き始めるとキリがない・・・ というか、未来は見えないものなのだから、理論などはいくらでも言えます。
ことの最後に、後付けの理論構築は正しくて天晴れな経済学に見えても、類似のパターンに適用するとうまくいかないのは、今現在の経済を見れば明らか。不安定なのです。
どちらも成功より失敗の歴史が圧倒的に多いですが、政策においては何かしらの方向付け、理論などをかざさないとリーダーシップが発揮されないのもまた現実。
たまにしか当たらない経済理論を経済学というのはいかがなものかと思いますが、一方、政治的に今の国会で使われている経済学を詳しく説明する場があっても良いように思います。そういう確信に立脚して法は制定されるものですから説明も簡単でしょう。
「公共投資を多くすると経済が潤う」というのは、近年の実績から見ても納得しがたいものがありますが、それでもなお、そのように言い続けるのは、鋭い先見力を持っているからなのか、それとも今だけ主義なのか、前者であって欲しいですが、あまり期待はできません。
借金したお金をばら撒けば一時的に潤うのは当たり前ですが、財政は長期的な視点が必要です。しかし仮に、一時的に潤すことが必要だと言うのであれば、そのように説明して欲しいもの。理由がしっかりしていて長期に見て合理的であれば納得してもらえるのではないでしょうか。
先にも書いたとおり、経済とは不安定で先が見えないもの。
それに対して大きな手(お金)を差し伸べるのですから、失敗(思うように成果が上がらない)した時の対応なども計画されていると良いかもしれません。